硝子活字工芸社 設立?

今回の内容は、2~3年前に尼崎印刷さんに硝子活字について取材に来た人が持っていたという出典不明の2種の資料に基づき作成した内容です。

名刺が行方不明のため、取材の内容が記事となり掲載されたかもわかりません。

その資料はB5サイズの書籍からのコピー9頁分で、覚え書きとして昭和元年・昭和2年発行と手書きされていました。

今回は資料の著者が各方面に取材した内容をさらにまとめ一部原文(青い文字の部分)の旧かな使いのまま使用し記事にしました。

〔著作物が昭和元年・昭和2年の発行とし、保護期間を公衆への提供時から50年として〕

七月五日の東京日日新聞は突如として、藤井魁氏等の硝子製活字の發明を報道した。東京高等工藝學校の伊東教授が「印刷史上特筆に値ひす」と穏健に言われたのに、もう新聞では「印刷史上の驚異」と大袈裟になった。さうして「研究完成す」とつけ見出しがある。「完成す」では寧ろ發明者が非常に迷惑するであらう。斯様な新工夫、数百年間殆ど何等の変化も見ることを得なかった活字鑄造材料の変更の如きは、餘ほどの注意と實際の成績とを見なければ、「完成」と發表し得ないものである。この事はの硬質活字に就いて見ても明らかなる所である。

硝子活字工芸社 概要(予定)
12月29日設立(昭和2年)
資本金廿萬圓の合資會
代表者 横山平七
執行社員 篠原規矩重・梶原七朗
相談役 三省堂 亀井
市外、下落合40番地
敷地1200坪
工場130坪
落成は4月の見込み(昭和3年)
鑄造機34臺
市場への売り出しは5~6月を予定(昭和3年)

硝子活字の発案

東京目黒の東洋タイプライター工員 手塚鐵太郎・飯作太吉朗の両氏が邦文タイプライター製造中に「鉛活字の摩滅甚だしいことに氣付き、硝子活字にしたらばといふ希望を起こした」。段々研究してゆく内に溶解熱其他の点で行き詰まり、藤井科学研究所の藤井氏(大正7年早稲田大学電気科卒)の所に持ち込む。藤井氏は同窓の篠原規矩重氏と協力し研究をはじめる。

原料

鉛の原料は、年/1800万から2000万円の輸入に対し硝子の原料、石英・石灰・曹達は国内産出することができる。

価格

活字1本は鉛の25分の1程度の見込みであるがそれは主に原材料の話であって製造工程においてボディーの四面を特殊研磨機グラインダーで研磨したり尻を平面に削り取る仕上げ等の加工を経てどの程度の大量生産が可能なのか、また溶解に要する石炭・ガス代を多額にみても非常に安価であるといえるのか。

重量

鉛の4分の1程度で組み版後の軽さは良いので持ち運びは便利であるが活字の落ち着きについては疑問  例へば挿しかへ機械への組みつけの場合に倒れる機會が多く、始末に困りはせねかといふ事である。併し之は、實際家が永く實驗したのでなければ斷言の出來ぬことである

硬度

硬度は鉛活字の三十倍と云われてゐるだけで、数字的に詳しく知れ得ないのは残念であるが、六號活字をストーブに二三回投附けて見た所では、角が少々缺けた位であるし、また字面を同様に擦りつけて見たところでは、(肉眼に見得る程度では)、同様変わりがないと云ふ話である

着肉

水晶と黄楊つげの印とでは、後者の方がつきが良いといふ一般智識から、密度の高い事のみでは、理由になり難いといふ批評も出てゐる。それから普通活字との混用であるが、これは少しも差し支へないといふ事である

高等工藝學校で普通活字を混ぜて組んで印刷してみた所では、何等の異常はなかったが、文字の面の平滑如何の問題ではなくインキなじみの問題であるから、さう簡單に片付けられない問題である

鉛毒

絶対に無い これはこの活字の一大特徴である

文選・差し替え

唯その字面が見難い事は、今後最も研究を要するてんであらう。これに就いては同社でも種々研究し、四方各方面を磨硝子にしたり、色をつけたりしてゐるが、まだまだ見づらい。これは第一に文選上で困る。ケースにはいってゐれば故障はあるまいといふのお一つの意見があるが、解版後の返字の方で困るわけ譯である。よしまた文選の方はそれでよいとしても、校正の際の差替へに骨が折れる。現に同社でも、他のてんに於いては、鉛活字に優ることを信じてゐるが、この點だけは研究の余地があると云つてゐる。併し今後の研究に依つて追々改良されるに相違ない。改良された曉には、その價値は非常に高まるわけである

紙型

鉛に比べ熱伝達が遅いので、尻の方から温めては具合が悪い

耐久力はある 熱に対する抵抗力は強いので、急ぎの場合は早く乾燥できる

鋳造

鉛鋳造が350~400度に対し、硝子の溶解点は加工工程により違いがあるにして酸化物を混じて溶解点を低めても1300度位の加熱が必要とされるため母型にそのまま鋳込む事が無理であろう、一度1000度位に冷却する事が必要であると考えられる事から  之らを直ちに母型に鋳込むことは不可能である。故に鋳造方法は二つに区別した。先ず初めに、溶解した硝子を活字ボディーの型に入れ、少し冷却して飴の様に固まりかけた時に、之をトンと押し出して、初めて母型に押し込むのである

字面

字面が山形に圓味を帯びてゐるという點は、其の後改良されて、最近のものは、その程度が非常に輕微である。また幾分字面が傾斜してゐたものなどのあつたもの、此頃では、殆ど全く改良されてゐる

湯流れ

母型の小さい線に、硝子溶解液が精密に流れ込んで、微妙な活字が出来るか何うか、といふことであるが藤井氏のお話では湯流れは非常によいといふことであるし活字を一見した所ではよく入って居る様である

併し、之も連続して工業的に鋳造したのちでなければ、断言することの出来ぬ問題である。試験ではない、実際問題である

 

以上のように出典不明の資料からの抜粋ですが、硝子活字が大量生産にむけて前進していたという事実があるようです。

しかし、現段階では硝子活字に対する資料、文献がほとんど入手できていませんので、硝子活字工芸社のその後、品質、普及についてもわからない事がいっぱいです。

資料を見せてくださった尼崎印刷さんの場合では、終戦間際から戦後間もなくにかけて鉛を入手しづらい期間、実際に硝子活字を社内で生産されていたとお聞きしました。

今回発見した寿印刷にあった硝子活字も、尼崎印刷さんにかつてはりんご箱2箱ほど確認されていた硝子活字も、どれも初号の大きさである点からして、大きな活字しか作る意味がなかったのか、小さな活字はできなかったのかを含め次回の記事にしたいと考えています。